2017.01.25(水)「第100回廃藩置県フェスティバル」 於 北浜 雲州堂
【出演】
ぽてとさらだ
みのようへいと明々後日
森田雅章トラディシオンカントリーバンド
つなぎ:根岸卓平ショー
*根岸卓平ショーとは
玉置浩二ショーを下地にして、自分の胸にずっと残っているJ-POPナンバーを披露します。ただのカバーではつまらないので、アーティストの活動期間が短かったり、セールスのよくないもの、ほかにも代表曲はあるのに何故かこの曲が好き、なんてものを中心にお送りします。特に子どもの頃、テレビやラジオで一瞬一聴しただけなのに、フレーズが今でもぶり返すもの。それってすごいことだと思います。そういう歌こそJ-POPを支えているのではないか。いわばJ-POP版柴田宵曲です
仕事を早退させてもらって、一晩寝込んだものの、引き続き風邪をこじらせたまま。練習も足りないし、曲の理解度も足りしてないしと、グダグダでしたが、計6曲を披露しました。幕間とはいえ、聴いてくださってる方が優しかったのが、ありがたかったです。
1. 深田恭子「スイミング」
2. say a little prayer "like or love"
3. 山本美絵 "17"
4. 山本琴乃「華」
5. 遊佐未森「ココア」
6. 恵比寿マスカッツ「親不孝ベイベー」
「親不孝ベイベー」の評判が一番よかったかな。自分も演奏していて、楽しかった。原曲はビックバンドのゴージャスなアレンジで、マスカッツのみなさんが楽しくツイストしていて、声もはねてて、かわいい。だけど、一抹の「不安定」がそこにあって。それはJ-POPの醍醐味だと思います。
アメリカの大地を大きなクルマで駆け抜けていく、まるで「テルマ&ルイーズ」のように。知ったこっちゃないわ、とケタケタ笑っているような歌だと思っているのですが、自分の場合、そのケタケタ笑っている、心の奥にある「不安定」な彼女の体温で、歌ってみようと思い、披露しました。アメリカの大地から、シェリル・クロウをイメージしたんですけど、どうだったんだろう。
実はイベントの途中で、ショッキングな報せが入ったりして、気もそぞろだった。さみしさと焦りと、だけど安堵もあって、ヘンな気分だった。
最後の森田さんのバンドを見ているときも、フワフワとしていた。地に足がついてなかった。だけど、森田さんの歌を聴いていると、落ち着いてきたし、やっぱり森田さんの歌が好きだなと思った。
「大学に行けなかった君へ」という新しい歌を聴いたとき、自分のなかにいる「大学に行けなかった自分」が、すごく疼いた。
自分は大学に行ったけれど、大学に行けなかった、行かなかった自分というのを想像することがある。それはきっと、「行った」ということに対し、後ろめたい気持ちに似た、行けてよかった、という気持ちがあるからだろう。いけなかったひとが可哀そう、とかそういうことではなくて、自分にとってはラッキーだった、という意味で、パラレルワールドにいる、「大学に行けなかった自分」というのが、時折顔をだし、疼くことがある。
うちの経済事情が多分に理由として、ある。それでも親は大学に行かせてくれた。だけど、自分は大学で学んだことと関係のない仕事、しかも正規雇用ではないし、あまつさえ、音楽をしている。それが後ろめたさの理由だろう。
だけど、自分は大学に行けて本当によかった。学ぶことが楽しかったし、なにより、学ぶことで自分の視界がひらけていくのを確かに感じていたからだ。だから、「大学に行けなかった自分」に対して、後ろめたい気持ちが強い。「大学に行けなかった自分」は今も、あのときのままで、お前は大学にいったくせに、と詰ってくるんだ。「行けた自分」はというと、「行けなかった自分」よりもずっとオトナで、宥めたり、眺めている。だけどオトナのフリをしているだけで、本当は彼を見下したり、哀れんだりしてる。わかったような顔をして、彼の児戯に似た屁理屈やルサンチマンを宥めている。
森田さんの歌を聴いていて、胸の奥で、大学に行った自分と、行けなかった自分が、抱きしめあうことも、慰めあうことも、いつかできるような気持ちになった。同時に、自分は自分にすぎないし、自分でしかありえないし、いまの自分で仕方ないし、それでいいじゃないか、と思い始めてることにも気が付いた。
森田さんはフォークのひとで、そのフォークを軸に、いろいろな音楽を展開しているひとなんだと自分では理解していて、フォークの定義というのは人それぞれなんだろうけれど、自分のなかでは「言葉と感情が結びついている」音楽で、それは森田さんのソロでも、バンドでも、traditional speechでも、そうだなと思う。traditional speechというのは、この文脈上、尚更いい得て妙だと思う。non verbal communicationという言葉もあるのだし、言葉がなくても、言葉はあるし、つまりコミュニケーションもスピーチも、できるわけで。そういう考えは、聾唖のひとにやさしいなと思うし、その延長として、すべての「欠けているもの」にやさしいと思う。
「キャンディガール」の、父親のいないお前、からの、おやじの亡霊がさまよってるよ、という詞の流れが好きで、キャンディガールというのは、自分のなかで、すこし尻軽な女の子を連想するのだけど、その女の子と父親の関係性というか・・、それこそ親不孝ベイベーなんじゃなかろうか、とか。この歌のなかで、娘の気持ちも父親の気持ちも、母親の気持ちも、そういった役割を捨てた、男の気持ちも女の気持ちも、そのどちらでもないものの気持ちも混在していて、森田さんの歌は、それぞれすべてを弔っているような気持ちになる。
中川さんはこちらが恥ずかしくなるくらいギターが上手で引き出しも多い。伊織さんのベースは歌の進行に沿った確かなものだったし、丸尾さんのドラムはお茶目でいい意味で、バンドを崩していて、それぞれの作る流れの上で、森田さんの歌が「在る」。その状態がすごくフィットして、観れてよかったなと思った。
挨拶もロクにしないまま、かえってしまったけれど、少ない時間のなかで、丸尾さんや伊織さんが自分のカバーした楽曲に関心をもってくださって、やさしく話しかけてくださったり、みのさんも「ブログ見たよ」と言ってくれたり。久しぶりに見たみのさんの歌が本当によくて、特に言葉のチョイスがいいなと思っていたけれど、みのさんが「親不孝ベイベーの、孝行離脱のパイオニアってとこいいよね」と言ってくれて、やっぱりわかってる!と嬉しくなった。あのゆるくて淡い、だけど骨太なフォークロック的な演奏の上で、みのさんの声と言葉が浮かんでるのが、めちゃよかったです、としきりにワーワー話してしまったけれど、みのさんが笑ってくれたのでよかった。
みんないいひとなんだ。それぞれの事情があっても、みんないいひとで、つまり、何があっても、前を見なきゃだなと、電車に揺られて思った。