2017.05.27(土)「hangesha bar」於 元町 汎芽舎
【出演】
Jap Kasai
Moloder
根岸卓平
DJ Makiyama
ご来場ありがとうございました。はじめての方、いつもの方、おひさしぶりの方、いろいろな方々が、土曜の夜、しかも遅い時間に集まってくださって、ありがたかったです。
「煌悼」を初めて披露しました。初披露、というのは、当たり前ですが、披露するまでは自分しかその曲のことを知らないわけですから、これって聴いてるひと、どう思うのかなぁ、なんて、ソワソワするのですが、加えて、今回は、自分なりにあたらしいことに挑戦していて、それがきちんと達成できるのかが気がかりでした。
あたらしいこと、というのは、例えば、わたしには珍しくストロークをしたり、メロディっぽい?のを弾くというようなことで、不慣れなのも手伝って、練習の段階ではうまく実現できず。リハーサルのとき、やっとこさ「あぁ、こういうことか」とわかったという感じでした。じっくり詰めていきたい。
「千年」。ずっと歌っている曲なのですが、発声のアレンジを変えました。ウーとかアーとかをより、いまの自分っぽく。この発声は結構、自分の武器だと思う。
MolderさんもJap Kasaiさんもエレクトロニックな音楽をされるかたで、ヘンないい方ですが、うれしかった。自分はどうも、「うた」然としたイベントよりも、機械をつかったものや即興とか、そういったものに囲まれた演奏のほうが、しっくりくるし、実際にたのしい。そういったタイプの音楽が好きだから、というのもあるけれど。
Molderさんは映像的な音楽をされていて、Molderさんと一緒に山をのぼっているような感じもあり(山登りが趣味だそう)、アトラクションのようだった。Jap Kasaiさんはいびつなダンスミュージックのよう。独特、でなくて、カタカナで「ユニーク」だった。お二方とも気さくで、はなしていても楽しかったし、またご一緒したいな。
Jap Kasaiさんは電車の都合で参加できなかったけれど、お客さんで来られてたbonnounomukuroさんと、槇山さん、Molderさんの四人で打ち上げで、中華料理を食べた。くだらないことや、仕事や家族のこと(この2つは、音楽をするひとにとって、かなり重要なファクターだと思う)も話した。ひとりで活動していると、自分の内側ばかり見てしまいがちだけど、ひとりで100日いるよりも、ふたり以上で、数時間はなしただけでクリアになることは山ほどあるように思う。
帰りしな、bonnouさんのクルマで送ってもらった。土曜のふかい夜の、人の去ったあとの、しずかな町。しずかな時間。音はかたくて、やわらかい。はなしては、とぎれ。慕うひとたち。10年前の自分に、いつか、こういう時間がお前にも来るよと教えたくなった。
≪曲目≫
1.鳳 2.実を吸うて 3.架空 4.骨と燈 5.煌悼 6.千年 7.一億の夜 En.千年
2017.04.05(水)「ノーチャージデイ」 於 京都 ネガポジ
【出演】
埜口トシヒロ(本日休演)
山羊の薬
靴底小石
根岸卓平
マイクの位置が定まらなくてソワソワしつつ、ゆっくり船をこぎだしていきました。まわりの音に反応しながら音を出してますよね、と言われ、気づいてもらえて、うれしかった。完全な無音よりも、マドラーの音がカラカラ鳴ってたりするほうが、燃えます。
靴底小石さんは女性の方の鼻にかかった声がよかった。山羊の薬さんは、「いま」を生きる女の子の暗がりをうたっていた。埜口さんは唇と指がすごくきれいで、見とれてました(ごめんなさいね変態で)。80s-90sの都会的な?バラードで使われる音しょくの曲(つまり露崎春女や傳田真央テイストの・・)がすごくいい曲だった。
MCでネガティブなことを話したな・・と思い、終演のあと後悔していたところ、いや別にそんなことはないんじゃない、と言われ、え、そうなの、と拍子抜けになるも、逆にネガティブってどういう意味なのかとさらに自分がわからなくなってしまいました。ちゃんちゃん。
≪曲目≫
1.鳳 2.実を吸うて 3.架空 4.骨と燈 5.千年 6.四肢の芳醇 7.一億の夜
2017.03.16(木) 「はしならべ」 於 梅田ハードレイン
【出演】
小池喬(シラオカ)
悲しみかもめ
the hula hoops
内田修人
根岸卓平
一番手はラクな気持ちでできるので結構好きです。相変わらずミスタッチが多かったのは悔しかったですが、間の取りかたはなかなかうまくいったんじゃないかな。「架空」のグルーヴが自分でやってても心地よかったです。しずかに巨大なイモムシが這って、洞窟を出ていく感じをイメージしたんですが、どうですかね。
フラフープスさんは何かを始めようというワクワクにあふれていて、悲しみかもめさんは郊外に住む男の人の夢がつまっていた(そういえば和歌山の方でしたね!)。小池さんはファニーで、イラストの世界の地続きだった。内田さんは声がやわらかくて心地よかった。皆さんギターが上手だな・・と思って見とれていました。
やっとこさレコ発のライブ盤が完成しまして、販売を開始しました。自分のライブの雰囲気はもちろんですが、「こういうことをしたいんだな」「『善』と思ってるんだな」と、ふかく自分の「うた」を知るキッカケになると思います。装丁も毎度のことながら清岡さんに好くしていただいてますし、毎度のことながら音源の調整をモツさんに協力していただいてます。本当に感謝しきりです。。!
ライブ会場や通販はもちろんですが、近々ネットショップを開設しようと思いますので、ゼヒゼヒご利用ください(^-^) なにとぞよろしくお願いします!
≪曲目≫
1.鳳 2.実を吸うて 3.架空 4.骨と燈 5.千年 6.四肢の芳醇
2017.01.25(水)「第100回廃藩置県フェスティバル」 於 北浜 雲州堂
【出演】
ぽてとさらだ
みのようへいと明々後日
森田雅章トラディシオンカントリーバンド
つなぎ:根岸卓平ショー
*根岸卓平ショーとは
玉置浩二ショーを下地にして、自分の胸にずっと残っているJ-POPナンバーを披露します。ただのカバーではつまらないので、アーティストの活動期間が短かったり、セールスのよくないもの、ほかにも代表曲はあるのに何故かこの曲が好き、なんてものを中心にお送りします。特に子どもの頃、テレビやラジオで一瞬一聴しただけなのに、フレーズが今でもぶり返すもの。それってすごいことだと思います。そういう歌こそJ-POPを支えているのではないか。いわばJ-POP版柴田宵曲です
仕事を早退させてもらって、一晩寝込んだものの、引き続き風邪をこじらせたまま。練習も足りないし、曲の理解度も足りしてないしと、グダグダでしたが、計6曲を披露しました。幕間とはいえ、聴いてくださってる方が優しかったのが、ありがたかったです。
1. 深田恭子「スイミング」
2. say a little prayer "like or love"
3. 山本美絵 "17"
4. 山本琴乃「華」
5. 遊佐未森「ココア」
6. 恵比寿マスカッツ「親不孝ベイベー」
「親不孝ベイベー」の評判が一番よかったかな。自分も演奏していて、楽しかった。原曲はビックバンドのゴージャスなアレンジで、マスカッツのみなさんが楽しくツイストしていて、声もはねてて、かわいい。だけど、一抹の「不安定」がそこにあって。それはJ-POPの醍醐味だと思います。
アメリカの大地を大きなクルマで駆け抜けていく、まるで「テルマ&ルイーズ」のように。知ったこっちゃないわ、とケタケタ笑っているような歌だと思っているのですが、自分の場合、そのケタケタ笑っている、心の奥にある「不安定」な彼女の体温で、歌ってみようと思い、披露しました。アメリカの大地から、シェリル・クロウをイメージしたんですけど、どうだったんだろう。
実はイベントの途中で、ショッキングな報せが入ったりして、気もそぞろだった。さみしさと焦りと、だけど安堵もあって、ヘンな気分だった。
最後の森田さんのバンドを見ているときも、フワフワとしていた。地に足がついてなかった。だけど、森田さんの歌を聴いていると、落ち着いてきたし、やっぱり森田さんの歌が好きだなと思った。
「大学に行けなかった君へ」という新しい歌を聴いたとき、自分のなかにいる「大学に行けなかった自分」が、すごく疼いた。
自分は大学に行ったけれど、大学に行けなかった、行かなかった自分というのを想像することがある。それはきっと、「行った」ということに対し、後ろめたい気持ちに似た、行けてよかった、という気持ちがあるからだろう。いけなかったひとが可哀そう、とかそういうことではなくて、自分にとってはラッキーだった、という意味で、パラレルワールドにいる、「大学に行けなかった自分」というのが、時折顔をだし、疼くことがある。
うちの経済事情が多分に理由として、ある。それでも親は大学に行かせてくれた。だけど、自分は大学で学んだことと関係のない仕事、しかも正規雇用ではないし、あまつさえ、音楽をしている。それが後ろめたさの理由だろう。
だけど、自分は大学に行けて本当によかった。学ぶことが楽しかったし、なにより、学ぶことで自分の視界がひらけていくのを確かに感じていたからだ。だから、「大学に行けなかった自分」に対して、後ろめたい気持ちが強い。「大学に行けなかった自分」は今も、あのときのままで、お前は大学にいったくせに、と詰ってくるんだ。「行けた自分」はというと、「行けなかった自分」よりもずっとオトナで、宥めたり、眺めている。だけどオトナのフリをしているだけで、本当は彼を見下したり、哀れんだりしてる。わかったような顔をして、彼の児戯に似た屁理屈やルサンチマンを宥めている。
森田さんの歌を聴いていて、胸の奥で、大学に行った自分と、行けなかった自分が、抱きしめあうことも、慰めあうことも、いつかできるような気持ちになった。同時に、自分は自分にすぎないし、自分でしかありえないし、いまの自分で仕方ないし、それでいいじゃないか、と思い始めてることにも気が付いた。
森田さんはフォークのひとで、そのフォークを軸に、いろいろな音楽を展開しているひとなんだと自分では理解していて、フォークの定義というのは人それぞれなんだろうけれど、自分のなかでは「言葉と感情が結びついている」音楽で、それは森田さんのソロでも、バンドでも、traditional speechでも、そうだなと思う。traditional speechというのは、この文脈上、尚更いい得て妙だと思う。non verbal communicationという言葉もあるのだし、言葉がなくても、言葉はあるし、つまりコミュニケーションもスピーチも、できるわけで。そういう考えは、聾唖のひとにやさしいなと思うし、その延長として、すべての「欠けているもの」にやさしいと思う。
「キャンディガール」の、父親のいないお前、からの、おやじの亡霊がさまよってるよ、という詞の流れが好きで、キャンディガールというのは、自分のなかで、すこし尻軽な女の子を連想するのだけど、その女の子と父親の関係性というか・・、それこそ親不孝ベイベーなんじゃなかろうか、とか。この歌のなかで、娘の気持ちも父親の気持ちも、母親の気持ちも、そういった役割を捨てた、男の気持ちも女の気持ちも、そのどちらでもないものの気持ちも混在していて、森田さんの歌は、それぞれすべてを弔っているような気持ちになる。
中川さんはこちらが恥ずかしくなるくらいギターが上手で引き出しも多い。伊織さんのベースは歌の進行に沿った確かなものだったし、丸尾さんのドラムはお茶目でいい意味で、バンドを崩していて、それぞれの作る流れの上で、森田さんの歌が「在る」。その状態がすごくフィットして、観れてよかったなと思った。
挨拶もロクにしないまま、かえってしまったけれど、少ない時間のなかで、丸尾さんや伊織さんが自分のカバーした楽曲に関心をもってくださって、やさしく話しかけてくださったり、みのさんも「ブログ見たよ」と言ってくれたり。久しぶりに見たみのさんの歌が本当によくて、特に言葉のチョイスがいいなと思っていたけれど、みのさんが「親不孝ベイベーの、孝行離脱のパイオニアってとこいいよね」と言ってくれて、やっぱりわかってる!と嬉しくなった。あのゆるくて淡い、だけど骨太なフォークロック的な演奏の上で、みのさんの声と言葉が浮かんでるのが、めちゃよかったです、としきりにワーワー話してしまったけれど、みのさんが笑ってくれたのでよかった。
みんないいひとなんだ。それぞれの事情があっても、みんないいひとで、つまり、何があっても、前を見なきゃだなと、電車に揺られて思った。
2017.01.21(土)「宮本善太郎×根岸卓平」 於 中崎町 創徳庵
ご来場ありがとうございました。
当日の三日前から風邪をこじらしてしまいまして、万全のコンディションではないし、いつもとは勝手の違う発声に集中すると、手元も狂うしで、みっともない姿をお見せしたかもしれません。。
善ちゃんは「間」のもつ色気を理解している稀有なドラマーで、勝手ながらシンパシーを覚えるだけでなく、自分はいちファンです。なので、お誘い頂いたとき、本当に嬉しかったです。善ちゃんはアブストラクトなパフォーマンスをするだろうと思っていたので、自分のなかでも輪郭のハッキリとした歌をぶつけようと思いました。
当日のメインが「手の一族」という歌でした。あまり演奏していない楽曲で、なぜかというと、歌っていて、エネルギーをとてつもなく消費するからです。且つ、イメージをただ並べただけのような詞が、なんとなく演奏し始めたばかりの、20歳のときを思い出させるからで、好きではなかった。
鬼束ちひろさんが、初期の楽曲は感情を叩きつけるだけだったからあまり好きでない、という風におっしゃってたのですが、くだんの「20歳とき」の自分の楽曲というのも、そういう感じで、「手の~」も実のところ感情をたたきつけて書いた、だから、詞は理路整然としていないので、長々としていて、それを朗々と歌い上げるので、疲弊してしまう。しかも、感情をテーマにした上に、くっきりはっきりと現前させるのだから、なおさら。
そういう理由から、この一年は演奏していなかったのですが、年末にかけ、もっというと、「とき」のレコ発イベントが近づくにつれ、何人かに立て続けに、あの曲しないの、と言われるだけでなく、ある人は続けて、あれは君らしい歌だよね、と言われ、戸惑ってしまった。そういう時期が重なったのもあって披露しました。
それ以外にも、あまり披露しない楽曲もいくつか演奏しました。それぞれのアップデートもできたらなと思い、歌い方や弾き方やを弄っていたのですが、十二分の力が出せなかった。ええとこ見せれんかった。悔しいので、また善ちゃんとご一緒したい。そう思いました。
《曲目》
1.鳳 2.四肢の芳醇 3.白い栄華 4.麒麟 5.実を吸うて 6.骨と燈 7.架空 8.鳥の終点 9.千年 10.手の一族 11.一億の夜 (En)1.親不孝ベイベー 2.よすが
2016.11.14(月) 「赤い睫毛」 於 梅田ハードレイン
【出演】
つるんづマリー
藤井九郎
山本裕太郎(札幌)
アニュウリズム(東京)
ざらめの咲о
根岸卓平
ご来場のみなさんありがとうございました。レコ発のときとほぼ同内容の曲目なのですが、レコ発当日も、この日も、いつもより演奏の感想を言って頂くことが多かったです。それは、自分のなかの「ベスト」な演目だったからなのかな。「一億の夜」を披露するのは二回目でしたが、こちらでも評判がよかったので、うれしかった。演奏して高ぶると、どうもマイクから離れて歌うきらいがあり、課題だな、と思いました。「うた」なんだし、聴こえないと、ダメだよなぁと。
この日はとても、大きな日で、というのが、ハードレインのサイモンさんに声をかけて頂いたのですが、サイモンさんは、私の高校生のときのサウンドトラックであるblgtzというバンドにサポートをされていた方なのです。それだけでも自分にとって、大きなことなのですが、共演のアニュウリズムさんが宮永遼平さんととても仲のいい方で、というか、宮永さんもサポートでアニュウさんに参加されていたり、共演されることが多々あり、そういうことで、お名前はずっと知っていたりとか、MVを見たりとか、ということはしていて、ずっと気になっていました。それで、2つの日程を提示されるなか、アニュウさんとの共演の日を選んだのですが、サイモンさんとの当日までのやりとりのなかで、実はアニュウさんはblgtzの初期メンバーだったということを知りました。アニュウさんが参加されていたアルバム「無人テレビの設計図」は本当に、爆発的にお世話になっていて、聴き返しては、自分がかっこいいと思う世界ってこれなんだよなと、よく確かめています。
blgtzを始めて知ったのは「無人テレビ~」の先行シングルの「アタシは水滴のフィルムウフフ」というシングル盤のジャケをbounceで見かけたときで、パイプ椅子がただ「ある」だけのジャケットで、ものすごく興奮しました。こんなすごいジャケットあるのかよと、思いました(マルセル・デュシャンのオマージュと、当日伺いました)。きちんとCDを手にしたのは「music from the motion picture soundtrack」という、ひとを食ったようなタイトルの作品で、これが本当によかった。つぶやきですらない、イマージュ未満の、「何か」。それを裏声で絶叫する。つたない演奏、単調な展開、しかしそのうえで、確かに轟音が鳴っている。異端であるということは、飽きない。かくも胸の澱を掻き乱す。すごい発明だと思いました。
「とき」を制作するにあたり、口酸っぱく言っていますが、三つ子の魂百までやなと思っていて、blgtzも勿論聴き返していました。「ルネ・ラルーの友だち」という曲があるのですが、ルネ・ラルーの映像作品をようやっと見たりもしました。そこで10年来の曲の色も、変わったりしました。
「全員引きこもり」と謳っていたインパクトもすごく、当時のインタビューを見ると、ほんとにそうなんだな、と思えるような、口数の少ない若者が居て、かっこいいと思った。私は引き籠ることもできず、音楽もせずに、ただチャリンコを漕いでいく田舎道のなか、「無人テレビの設計図」でアタマをいっぱいにすることしかできなかったのだから。
当時はsigur rosと並んで「文章化」されることの多かった音楽なのですが、それはただ裏声だからとか、大きく括ると「ポスト・ロック」のなかに両者がいるからに過ぎないというだけで、blgtzには狂気を求めていたし、sigur rosには狂気を求めていなかった。それも、「変わったことしてるんで自分は」、みたいな感じではなく、信じている「美」がたまたまこうあったというだけで、その姿に猛烈に感動した。それはいま自分が創作に求めるものや、創作をするなかでの、「救い」や「癒し」の定義でもある。前名義の時分、私が女装していたのは、ボーカルの田村さんがそうしていたからです(もちろん、それ以外の意味もあります)。
アニュウさんは当日、blgtz時のようなギターではなく、吃るようなギターを爪弾いていて、そこに繊細というより、空想のもつ、あやふやなイマージュのなかを浮遊するような歌を乗せていた。すごくよかった。アニュウさん、宮永さん、甲斐哲郎さんと、埼玉を軸にする男性SSW界隈に嫉妬した。
つるんづマリーさんのことも私は勝手に存じ上げていて、というのが、私は怖coaを軸に姫路の音楽シーンを中高生の時分、明石という、近いようで遠いまちから、ネット経由で視ていて、当時からお名前は知っていた。急に距離が縮まったような気がしたのは、カニコーセンさんとマリーさんが親しくなったあたりからで、なんとなく、いつか会える気がしていたのですが、今回やっと対面することができ、それもうれしかった。マリーさんの歌は男の子の世界だなぁ、と思った。ほりゆうじさんは、ゆったりいこうよ~という感じなのですが、マリーさんは少年だからできる「斜めから世界を見る」という具合がよかった。好きな声だった。
アニュウさんともマリーさんとも、初めてあったのに、旧知の仲のような気持になり、すぐに打ち解けた。お2人の縁から来場されていた、大ギンガ書房さんとも打ち解け、わたしの「ムシャクシャしたらサイゼリアで明太スパを二皿注文して自分を汚す」という話が発展し、4名でハードレインそばのサイゼに行き、打ち上げをした。ライブハウスでのライブのあとの打ち上げだなんて、初めてだった。
終電。blgtzや姫路を回想して、この日をもって「とき」のレコ発は完結したんだなと、思った。
≪曲目≫
1.鳳 2.実を吸うて 3.架空 4.骨と燈 5.千年 6.一億の夜
2016.11.11 「根岸卓平『とき』発売記念イベント」 於 難波ベアーズ
【出演】
工藤礼子+工藤冬里
半野田拓
ayami yasuyho
根岸卓平
今回は本当にひょんなことから、始まったイベントでした。「とき」を制作し、さらにいろんな方に届いてほしいなぁと思ったとき、ベアーズのスタッフの方に「呼びたいひと呼んでみたら」「せっかくなんだし、たくさんのひとに来てもらったほうがいい」と言って頂いたことに由来します。
前回の、「Gossip Folks」発売時は、ベアーズの方が、「いろんな演奏がみたい」という私の意図を汲んでブッキングしてくださったのですが、今回は私に通じるようなひとたちとしたい。仲がいい、とかそういうホーム感ではなく、わたしたちの中にある一本線が互いに響き合うような、「通じている」というマトマリがほしい。
「とき」はごっついものを作ってしまった、という自負があって、でもそれをクチでいうのは、ものすごく簡単。それを経た自分は、ほんとうにごっついのか、勝負したい。だから、いち演奏家として超えたいと思うひとがいい。また自分より名の通った方々をお呼びすれば、彼らをキッカケにして、「とき」の存在を知ってもらえるかもしれない。
演奏活動を通して思うのが、勝負してやるぜ、みたいな感覚って、持ってるひと少ないのかなぁ、ということです。別に口に出していうことでもないし、それぞれの腹のウチというのは、わからない。わかってはいるのだけど。わたしは昔から、小学生の時分の落書きひとつとっても、絶対自分のほうがおもろいしヤバいことしてる、という気持ちはすごかった。
別にケンカしろとかそういうことではない。例えば、詩人の世界というのは、君がそう描くならば、俺はこうかな、という歴史だと思っています。共感しつつ、切磋琢磨して、という感じ。でもライブハウス界隈を見ていると、どうもそういう勝負とか野心というのが、あまり見えないなぁと思う。
悪いことではないから批判はできないし、自分もどこか、肩を組んで安住したいと思っているのだろう。だけど、音楽ファンの集いみたいになるのが、わたしはイヤだ。私は、少なくとも聴いている音楽をキッカケにして、ひとと繋がろうとは昔から思っていなかった。それはそれ、これはこれ、という感じで、音楽でなくても、映画でも美術でも、なんにしても、それは自分を夢中にさせる世界が広がっているから好きなだけで、純粋に興奮させてくれるもので、大きくくくると「癒し」なんだと思う。だから、だれだれと共演して、みたいな話は勿論ですが、「あこがれているひと」を超えようという気持ちのない、単に行動をトレースしただけの癖に、しれーっとした顔つきのひとを見かけるのは、得意じゃない。
わたしが今回工藤礼子さん冬里さん、半野田拓さん、ayami yasuyhoさんに声かけたのも、名前が通っているとか、いろんな分野に精通しているとか、前述のように、もちろんそういう意図もあるのですが、純粋にかっこいいと思うし、だからこそ、勝負しましょうや、ということで、言ってしまえば勝手にじゃんけんをしているにすぎないのだけど、そういうことなのです。自分はすごいといいつつ、あらゆるひとたちの後ろ指をさすのはもう飽きたし、それならもっと、胸を張って、前に出なくてはならない。それが自分の活動の、責任の取り方だと思っています。
「鳳」は、表向きは傷ついた鳳を癒すために黄金の水をかけて、翼が生えていくような、どうかな、という過程を歌っているのですが、「大トリ」に発音し直してもらって、大トリを務めるくらいすごいひとやえらいひとやあこがれているひとをボコボコにしたあと、わけわからん水かけて、さて、どないします、と挑発しているサマにも解釈して頂くことができるのですが、お気づきでしょうか、
今回のイベントを通して、やっぱり自分のしていることを広く知ってほしいし、褒めてほしいし構ってほしいし、だけど同時に「自分のしていることでしか救えないものがあるはず」と思っていることに、改めて気づきました。
活動の動機は自己愛とか、顕示欲とか、「俺がやってやろうじゃないの」「かっこいいことしてやろうじゃないの」みたいな勝気では、あります。だけど、私は勝手に背負ったような気持ちになるのが好きで、自分のしていることも誰かの癒しや救いになればなと思っています。「一億の夜」というのは、「やっぱ、そない思ってるねんな」と気づいたときに作ったものです。今までに比べると歌詞がわかりやすいなとか、素直だなというのがあって、だから「恥ずかしい」と思っていたのですが、今までの方法だと、少しわかりづらいのかなぁと思ったりしました。
わたしは焼き物を見るのが好きで、そういう焼き物のもつ存在感を演奏に返したいと思っている。そういう「すごみ」に私の生命は震えるし、かっこいいなと思うし、癒しだ。そういうのを演奏に還しているつもりです。だけど、今回はもう少し、素直に癒してみようかなぁ、と思いました。それは聴衆に媚びるとか、レベルを落とすとか、そういう失礼な発想ではなくて、焼き物的な鼓舞から、絵画のもつ、「ここが好き」とまだ口にしやすい要素に移行したような感じ。自分の「癒し」たる部分を明確に打ち出さなきゃってことだなぁと気づいたのです。
もちろん、楽しくてポップなものも好きだし、みんな楽しい世界、というのも好きだし、ものすごく絶望的で暗い闇も好き、なんだけど、そのどちらの世界にいても、居心地が悪い。わたしは、極端ではないし、中途半端で、今までもそういうバランスをとってきた。同じように「居心地の悪い」ひとたちに向けて、何かしていくのが、自分のカルマなんだなと、思いました。そういうひとたちこそ、「癒し」を求めている。求めている、ということに気づくことで、「平等」になるのかもしれない。
すべての人間が平等になるなんて、ありえないし、そうなったとしても、それが正しいとは、思えない。だからこそ、理想郷としての平等を自分の歌のなかでは実現させたいと、思っています。
今年はもう、演奏の予定はないのですが、来年の一月と三月は決まっています。「歌う環境」と交通費さえ揃っていれば、どこでも行きます。演奏のお誘いは、uncowakigerecords@gmail.comまで。
≪曲目≫
1.鳳 2.実を吸うて 3.架空 4.骨と燈 5.千年 6.四肢の芳醇 7.一億の夜